ある時代との別れ
皆様、こんばんは
8月12日は、もう30年来お世話になっていた方の告別式でした。
近所のジャズライブハウス「Black Saint」のマスターです。
ここのところ、お店へはご無沙汰していたので最後に元気な姿でお会いしたのは今年の春頃だったのかもしれません。
今住んでいるこの土地へ移り住んだ理由のひとつに、この店の存在がありました。
ジャズをやっていた20代から30代にかけては毎月のようにライブ出演をさせていただいて
競演してきたミュージッシャンも多数にわたりますし、ここで出会ったミュージッシャンも様々。
また、お客さんたちとの出会いもとても面白いものがありました。
始めてこの街へ引っ越してきた当初は、こういう地元の店、そこに出入りする地元の人たちが頼りでした。
マスター、ご自身は以前は建築関係をやっていて自宅の一階にライブハウスを建築するに当たっては、知り合いのミュージッシャン、特にジョージ大塚さんとご相談して自ら設計に当たったとのことでした。
ご自身もテナーサックスを演奏し、船橋市のアマチュアビッグバンドで活躍されていました。
ライブ全盛だった頃は、毎週水曜日と日曜日にライブがあって、海外のそうそうたるジャズメンも演奏しています。
印象に残っているのは、ベニー・ゴルソンとミロスラフ・ヴィトウスかな。
ライブの常連はジョージ大塚さんでした。
色々なミュージッシャンを連れてきて演奏を聴かせてくれました。
小生がマスターと組んでジョージ大塚さんをメインに置いて、某野外ジャズコンサートを催したこともありました。
小生がブラジル音楽へシフトしてからは、ジャズライブハウスとしてのお店でバンドのライブをすることはありませんでしたが、セッションなど、時々は遊ばせていただきました。
マスター自身は、今は無き、新宿の「木馬」や「ポニー」のマスターと親しかったらしく、そんな話もよくしたっけ。
両店とも好きなお店でした。
古きよきジャズ喫茶の時代です。
「Black Saint」のオーディオ装置は大変なもので、小生はそちらの専門家ではないので詳しくは分かりませんが、ステージの背面をほぼ埋めてしまう巨大なウエストレイク製のスピーカー、アンプはマスター自慢のスレッショルフ(?)等々。
以前は当然、LPをかけていました。レコードの片面が終わるたびにカウンターとオペレーションの間の移動が大変でした。
よく自分のレコードを持って行ってかけてもらっていました。
自宅では聴こえない音がするのです。
それからCDに変わっていき、最近は移動がしんどくてジャズ有線を流すようになっていました。
それでも時々は昔のシステムでレコードを鳴らすことがあって、その音は今やここ以外のどこでも味わえないすばらしい音でした。
ちょっと前に小生が書いた雑文で引用させてもらいます。
「引用」
ここは、30年ほど前からお世話になっているジャズライブハウス。
元々オーディオセットがものすごいお店で、レコードを鳴らすときはウエストレイクの箪笥ほどもある大きさのスピーカーから真空管アンプを通した素晴らしい音が出ていたものでした。
当然ライブハウスですから、グランドピアノがあり、ライブ用モニターはJBLの大型スピーカー。ライブ゙の音も素晴らしいものがあります。
ただ、お店はご夫婦二人だけでやっており、高齢化でなかなか大変な状況です。
LPからCD、最近は有線JAZZへと音源がシフトしていきました。
年をとって頻繁にディスクを交換するのはきついですよね。
それ以前に店に出ること自体がきつくなりますよ。
そんなことでここ数年はウエストレイク・スピーカーの本気の音を聴くことができませんでした。
以前は自分のLPを持って行ってかけてもらい、家では聴こえない音を発見したりしたものでした。
駅を降りて、遠くに店の明かりがほんのりとついていることを確認。
店に入ると、音が・・・・・、懐かしいあの音が、LPレコードの音が大音量で鳴っているではありませんか。
ウエストレイク・スピーカーの本気の音、久しぶりに聴く音。
さっきまで聴かされていたいわゆるDJの単にうるさいだけの音(仕事でしょうがなかったのですが。)はゴミですな。
大音量なのにうるさくなく、すべての音が立っている。
特にベースの音の立ち上がり、ピアノの粒立ちのよさ、ドラムの繊細な響き、完璧な音です。
また、かかっているレコードがいい。
キース・ジャレットのスタンダーズの第一作目ですな。
1985年の作と推察いたします。
このシステムにピアノトリオは抜群に合うのです。
こういう音をお金を出して聴きに行っていたんだよね。
そういうジャズ喫茶も本当に少なくなってしまいました。
店主の高齢化と共に消え行く運命なのでしょうか。
いっぱい飲みながらこの音を聴いているうちにぐっときてしまいました。
ちなみに件のジャズバーは、京成大久保駅下車の「Black Saint」であります。
「引用終わり」
最近は、マスターは体調が悪くてお店にもあまり降りて来ず、ママさんが一人で切り盛りしていることが多く、結構広いお店なので大変だったと思います。
ここは、近所の飲食店、特に飲み屋さん、小料理屋さんが閉店してから店関係者が来ることも多く、飲食店のオアシスだったような気もします。
お客さんの難しい注文に答えて面倒な料理や凝ったお酒を提供している面々が、終了後は軽いおつまみで酎ハイを飲むのが楽しみなんですね。
また、近所の東邦大や日大のジャズ研も良く使っていたようです。
単に日本に残っている本格的ジャズライブハウスというだけでなく、地域の拠点という意味もありました。
色々な思い出を記していたらきりがないのですが。
ママさんがご健在ですから、お店の今後というのはまだ分かりませんが、今までのような形でというのは難しいでしょうね。
小生的には、自分の中で音楽を育んでくれた昭和の正統派ジャズ喫茶の系譜が確実に終わったんだという気がします。
それと、この店との出会いがなければ、小生は今ここにこうしては絶対にいなかった。
横浜の浜幸のマスターや乃津のマスターとの別れもつらかった。
順番とはいえ、こういう別れは本当につらい。
でもお別れを言わなくてはいけません。
マスター、色々とありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
さようなら。
ではでは