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2009年12月 アーカイブ

2009年12月10日

冬の遠刈田ライブと常磐ルート

皆様 こんにちわ。

先週の土曜日は、宮城県遠刈田温泉の喫茶店「キャロル」で単独ライブを行なってきました。

遠刈田温泉といえば、毎年6月の第一土曜・日曜に行なわれる大道芸フェスティバルに参加させていただいていますが、今回は単独。
一つには、大道芸でも演奏する喫茶店「キャロル」は、広くて演奏しやすく、なおかつとても音楽的な空間で、この場所で落ち着いた雰囲気の中で演奏してみたいとかねてから思っていたこと。
また、寒い季節の遠刈田温泉の佇まいにも興味があったこと。
これも大きい要素ですが、土・日高速1000円てやつですね。
あと、大道芸の際はとても忙しくて演奏をじっくり聴く機会がない遠刈田温泉の皆さんに楽しんでもらいたいという気持ちが以前からあって、これらと時期的なタイミングがあったということでしょう。

今年は、まだ本来の冬らしい寒さが来ていないこともあって、道路の心配もさほどなく順調に到着。
これも、大道芸の際には混んでいてゆっくりと楽しむ余裕が無い鴨そばをじっくりと堪能。
夜はあいにくの雨となりましたが、野外イベントではないので心配はありません。
お客様は、地元の方々、旅館に宿泊している観光客の方々、仙台からも仲間が駆けつけてくれて、楽しい一夜になりました。

沖縄でもソロ・ギターでツアーをしてきて、最近はこのスタイルも気に入っているのですが、ごまかしが効かないまたは延々とごまかせるというところが難しい。
クラシックギター的には前者、その他的には後者で、この両者のバランスも考えなければいけません。
前者ばかり気にしているとブラジルスタイルのノリが失われてしまうし、そうかといって後者ばかりというのもだれてしまうし。
正味2時間。
最近良くやる作曲家別特集みたいなプログラムです。
そしてアフターアワーは、酒解禁のセッションタイム。
これが楽しみでもあります。

アフターアワー・セッション
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思っていたとおり、喫茶店「キャロル」という環境での夜のライブがとてもいい雰囲気を創ってくれました。
準備をしてくれた遠刈田の皆さんに感謝します。

翌日は、とても良い天気。
今回は別ルートで帰ってみようと考えていまして、つまり常磐ルートです。
東北道だと、宮城・福島・栃木・群馬・埼玉・東京・千葉と帰ってくるのですが、今回のルートは、宮城・福島・茨城・千葉と簡略化されます。
で、日曜日1000円のうちに水戸まで移動してあとは一般道で行こうと。
月曜日に戻ればいいので、途中、水戸で一泊することにしました。

14時頃出発して水戸着は17時頃。
その日は疲れもあって早々に就寝、翌朝は6時起きで、30分ほどで行ける那珂湊漁港へ。
ここは茨城県でも有数の魚市場で、水揚げ直後の新鮮な魚が安く手に入ります。
早朝の市場の活気も楽しく、なんだかわくわくします。

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これで1200円
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朝食と買い物を楽しんで、8時半頃出発。
前夜休息を十分にとったので今朝は快調です。
国道51号はあまり信号もなく、大洗・鉾田・鹿島を通って利根川を渡り千葉県へ。
途中、原子力開発機構と鹿島サッカースタジアム近辺は特に道路が良くなってました。

鹿島スタジアムの偉容
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利根川沿いのバイパスを走って印西市から南下して帰宅。
のんびりと走っても昼前には到着できました。
天気が良かったので、鹿島灘の海が太陽に輝いていて、海から離れてもぽかぽか陽気で気持ちのよい帰路でした。
このルートは初めてでしたが結構いいですね。
というわけで、今年は二回目の遠刈田温泉。
来年もこんな展開を更に発展させると面白いだろうな。
ではでは

2009年12月24日

「鉄路の記憶」 その1

皆様こんばんは。

今年、このブログに記した飯田線のことや、過去の記録、記憶を辿ると、小生が鉄道好きということが自分として再認識されてきました。

断片的な記憶として思い出して話題とすることはあります。

いわゆる「てっちゃん」的な話題として。

しかし、今年参加したJR東海さんの「佐久間レールパーク」の仕事で味わった、昔の車輛に乗ってみた想いを考えてみると、鉄道というものは自分が生まれ育った時代と地域の空気と一体となって心の中に残ったレールではないかと思われるのです。

これから、若干の時間をかけてその「自分が生まれ育った時代と地域と鉄路」の関わり合いを記していきたいと思います。

題して 「鉄路の記憶」

不定期連載になると思いますが、小生が生きてきた時代の空気を鉄路の記憶と共に見直したいと思って記します。

興味がある方はお読みください。


第一章  「シマはどこね。」


この言葉を聞いたのはもう何年も前、沖縄は鳩間島へ行き始めたことだった。
「シマ」という言葉は、日本語では島である。
しかし、八重山ではうまりじま、生まれた島、生まれた土地、すなわち、故郷のことだった。
沖縄が大好きだった僕は、東京です(当時は、八重山と沖縄の違いも意識していなかった。)と言うのが少し恥ずかしかった。

昭和30年生まれの僕は、東京都品川区武蔵小山に生まれた。
実際に生まれた場所は、品川区五反田の関東逓信病院である。
その当時の大人のサラリーマン(父親)の月給はどのくらいだったのだろう。
たぶん1万円には及ばなかったと思う。
子供心には分からないが。

武蔵小山は、東急目蒲線の目黒から二つ目の駅。
日本でも最長とされるアーケード街で有名な街である。
その頃の目蒲線の記憶はない。
記憶があるのは、住んでいた武蔵小山の下駄履きアパート、母親に連れて行って食べさせてもらったアーケード街の中のラーメン屋、アパートの階段から三輪車で転げ落ちたこと、そして銭湯くらいだろうか。
   
何年か後にこの地にまた戻って、青春時代を過ごすなどということは当然想定外だった。

昭和30年代というのは、終戦直後の時期から朝鮮戦争特需を経て、日本が高度経済成長の急速な波に乗っていく時代だった。

父の社宅であった武蔵小山の下駄履きアパートも、弟が生まれ、家族が増え、時代が変わることによって住環境は変わっていった。

父親の転勤、家族構成の変化によって僕等の生活の場も移動していった。
生活の場所が転々と変わっていくのである。

次に引っ越したのが世田谷区経堂。

この頃から鉄道の記憶が残り始めている。
小田急線、ロマンスカー。
昭和33年。
母親に連れられて小田急のロマンスカーのチャイムの音を聴くのが楽しみだったことをおぼろげに記憶している。

当時の小田急の普通電車は上半身が黄土色、下半身が藍色だっただろうか。

しかし、後で記憶を遡った鉄路の原風景は、母方の両親の家だったような気がする。

戦後まもなく、東京に居を構えた母方の両親の住まいは、新宿の東大久保の造幣工場(日銀のお札を印刷する部門であったような気がする。)、現在で言うと新宿区戸塚の近くであった(記憶が確かではないが。)。

庭を都電が掠めて行った記憶がある。

昭和30年代だから、上半身が黄色、下半身が茶色。
当事は、路面電車華やかなりし時代で、新宿や神田、御茶ノ水、郊外といわれた中野まで都電網が張り巡らされていた。

また、記憶があるのが、池袋を基点としたトロリーバス(架線から電気を供給する電動自動車。)。
現在であれば、いわゆる「エコ」の見本だったんだろうな。
これらの記憶はおぼろげながらだ。
都電の記憶は鮮明に残っている。
行先表示と行先番号だ。
須田町、月島、中野坂上・・・・・53,61,27(番号とは合っておりません。)
都内を縦横無尽に都電が走っていたっけ。
「月島」ってどんなところだろうな。「須田町」ってどこだろう。
行先表示にはそんな想像力をかきたてるものがあった。

あの時代、物理的にも経済的にも容易に遠くへ行けなかった時代。
心を湧かせる未知の土地への憧れを抱かせる象徴が鉄路だったのかな。
(続く)

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