2015年鳩間島豊年祭
もう十数年鳩間島を訪れて、音楽祭にも13回出場しているのに、この島の最大のお祭りである豊年祭にはまだ一回も行ったことがありません。
以前から一回は見てみたいと思っていました。
音楽祭は島内外関係なく楽しめるもの、これに対して豊年祭は島人のためのもので、島外の者が行って果たして楽しめるのかというところが躊躇していた一因です。
島人に相談したら大丈夫だということで、今回行くことにしました。
豊年祭見学限定なので鳩間一泊、石垣二泊の三泊四日の短い日程。
この時期お約束の台風が接近しているが、12号は沖縄本島から奄美、九州へ進むという予想で、石垣入りした7月24日は八重山地方はとても良い天気。
沖縄本島地方は明日から大荒れで飛行機も欠航になるだろうということだ。
最近の夏は沖縄が暑いというよりは、本土の方が暑い。
なんせ37度だ、38度だなどと言っているわけで、確かに八重山の日差しは本土より強いけれど、日陰は本土より涼しいような気がする。
とは言え八重山の真夏の日差しはさすがに強い。
まずはこれ
今年の鳩間島豊年祭の日程は、25日ゆーどぅし、26日とーぴん、27日綱引きとなっていて、25日に渡って26日のメインの行事を見て石垣に戻るという予定。
短期滞在なので預け荷物なしの身軽さ。
25日の海はとても静か。
鳩間島U家のターキーは5月にちょっとした怪我をして足をちょっと引きずってはいるが大事には至らないで良かった。
今晩のゆーどぅしとは、夜8時頃から友利御嶽に集合して神様をお迎えするお祈りを夜通し行うというもの。
島外の者も見学可能ということでターキーに同行するつもりだったが、彼は一杯飲んで寝てしまい、代わりに行ってくれとのこと。
仕方なくターキーの分、小生の分の奉納のお酒を持って御嶽へ。
真っ暗な中の友利御嶽はぽつりぽつりと明かりをつけて幻想的な雰囲気。
奥のお宮に祭壇があって供物が祭られている。
この座敷に入るのは島の重鎮たち。
お祈りをしながら神様と酒を飲み料理を食べ唄を唄い踊りを舞うという趣向らしい。
それ以外の席はお宮の外側に設けられている。
午後9時過ぎから三々五々人が集まり始めてお祈りが始まる。
中心になるのは公民館長。
全てを仕切るのは彼だ。
三味線、笛、太鼓もついでに酒も程よく入って徐々に座は盛り上がってきているようだが、外野席から見ていると単なる宴会が舞台上で行われていて、それを見ているだけという雰囲気で、これは朝までいるというのはとても無理だなと思って12時過ぎくらい、適当なところで引きあげた。
来ている人もまちまちで、お宮の中と外野席のメンバーも、必ずしも重鎮かどうかというところもあいまいなようだった。
翌26日は豊年祭のメイン行事、とーぴんが行われる。
昨日のゆーどぅしでこの日のスケジュールを決定、東西の旗頭がメイン会場であるサンシキ(桟敷)広場に下りてくるのが11時頃、順番に催し物が行われ、3時頃にはハーリー、4時半の船に間に合わせるということだ。
大体の行事は帰りの船の時間に間に合わせるということがお約束。
この日の朝の船で石垣在の人達が入ってきて参加者が揃うということらしい。
東西の旗頭が広場へ登場。かなりの高さがあり、電線に触れそうではらはらする。
サポートはあるものの直接の持ち手は一人だから大変そう。
以降、お宮から氏子達の行進、みるく様の行進、棒術、踊り、歌の奉納からハーリーへと続く。
氏子達
みるく様の登場
100%島人向けの祭りだから公民館長の挨拶も音楽祭とは違って鳩間口。殆ど何を言っているか分らない。
中でも子供たちが登場して子孫繁栄の神様と踊る、「かむらーま」という踊りはユーモラスで印象に残った。
棒術
踊りの奉納
八重山の四季という歌での踊りは洋装の女性たちで、これは初めて見るものだった。
そしてメイン行事の最後はハーリーの東西対決。
とても天気が良いので海がまぶしかった。
太鼓による声援はさることながら、これに鉦が加わると何だか異国情緒を感じてしまう。
東西の旗頭が入場
スタート
東が先にゴール
西のゴール
勝負の結果が出るとそろそろ帰りの船の時間がやってくる。
祭り自体は明日27日の綱引きまで続くのだが、今日は日曜日。やはり今日帰る人が多く船は満員。
それでも、1艘ですみそうだ。
豊年祭は音楽祭と異なって島人の島人による島人のための祭りだ。
ただ、秘祭ではなく外部の人にもオープンになっているということなのだ。
だから、外部の人に対する配慮はほとんどないと言ってよい。
内容も多彩でこれだけの伝統を絶やさずに続けていくということは大変なことだと思う。
勿論、島在住の人達ではできるわけはないので各地、特に在石垣郷友会の人達によるところが大きいと思った。
島の関係者たちにとっては年に一度の同窓会の場でもあるだろう。
ただ、外部の目で見ると、伝統的な形というのは本当に現在行われているようなものだったのだろうかと思えてしまう。
つまり、伝統芸能が正しく承継されているのだろうかということだ。
殆どが島を離れている人達の手によるのでなければ成り立たないという事実が、奉納芸の曖昧さとして垣間見えてしまうのだ。
とりあえず形にはなっているが、何だか違和感の残る印象を抱いてしまったのは多分そのあたりにあるのではないかと思った。
単なる村祭りだったらどこにでも存在する。
鳩間島豊年祭には伝統芸の継承役を期待したいのだが。
とても静かな海を石垣へ帰着。
この日は友人のAさんの新築・改築のとても素敵なお家にお世話になりました。