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2019年02月 アーカイブ

2019年02月04日

鳩間島のY.U.さんのこと

鳩間島のY.U.さんのこと

また、つらい訃報を聞かなければなりませんでした。
小生が鳩間島へ通うきっかけを作ってくれたY.U.さんの訃報です。

ここ十数年は、奥様が難病を患って那覇に入院してから、看病のため島を出て付き添って、その甲斐なく奥様が亡くなってからも、島に戻ることなく沖縄本島で生活されていました。
高齢なうえに病を患っているとのうわさも聞き、どうされているか気にはなっていました。

2019年1月1日の午前8時に逝去されました。
85歳でした。

鳩間島の親しい友人であり、人生の先輩であったY.U.さんのことを振り返ってみたいと思います。

小生がT先生をはじめ島人達の前で演奏を披露することになった経緯は、以前ここに書いたことがあります。
そこで、鳩間島では毎年5月3日に音楽祭をやっている、これに出ないかという話をいただいたのがY.U.さんでした。
もう17、8年前のことだと思います。

その当時、彼は沖縄県の教員を退職して、島に戻って来て音楽祭実行委員長をやっていました。
確か、島では初めて琉球大学へ進学した人で、鳩間島きってのインテリでした。
島人達の間では人望も厚く、何かと頼りにされている方でした。

音楽祭に出ないかと誘われたは良いが、伝統芸能が盛んで島唄の宝庫のような鳩間島で、ブラジル音楽をやっていいものかどうか迷いましたが、島人達の助言もあって、翌年初めて音楽祭に出演させていただきました。
以来17年。

Y.U.さんとは音楽祭に出演した年から徐々に付き合いを深めていきました。
来島時は毎晩のようにお宅を訪れて杯を酌み交わしました。

彼は書道の師範の資格を持っていて、見事な書体を描き、島の公の場の文字は殆ど彼の手になるものでしたし、小生が何通かいただいた手紙は、あまりの達筆さに額に入れて展示しておきたいようなものでした。

島の風習や八重山のことも色々なことを教えていただきました。
教師は時間に正確でなければいかんという持論で、いわゆる島時間とは無縁の人でした。
約束の時間を守らないと叱られました。

2、3年経ってからでしょうか、お前は家人中(やーにんじゅう)―「家族」の方言―だと言ってくれて、家人中は島に来て民宿に泊まることはなかろう、家に泊まれと言われました。
ついついこの言葉に甘えて、以後島に行くたびに彼のお家に居候することになりました。
一時など、彼が不在であるにも拘らず、うちの家族3人で滞在していたこともありました。

春の音楽祭の時期のみならず、小生の島旅の原点ともいえる秋にも毎年おじゃまして、庭で十五夜の祭りをやったなあ。
島の古老たちも集まって島の伝統芸能に触れることもできたのはとても貴重な体験でした。
春の音楽祭を中心として小生の友人達も彼のお宅に泊まるようになってしまって、一時期は十五六名泊まっていた時期もありました。
さすがにその後は自粛しました。

彼のお宅の隣の土地に、妹さんのお家兼ソバ屋も作りました。

Y.U.さんはとてもおしゃれな人で、音楽祭に出演する際は白のスーツ姿が多かった。
普段でも、島的なラフな格好はせず、スラックスにYシャツ姿が多かったように思います。
島の北側へ釣りをしに行くとき、リーフの上を腰まで海に使っていくのですが、黒いスラックスに白いYシャツ姿で、まるで街へ仕事をしに行くような格好で出かけていたのを覚えています。

教師としてもとても慕われていて、与那国島へ赴任した時―与那国の方言というのは八重山の人達でも使うことが難しいといわれていますが―最初に与那国の方言で挨拶したので与那国の人達がとても驚いたという話を聞きました。

人口が少ないのでとても親密な人間関係を作っている鳩間島で、その血縁関係についても事あるごとに教わりました。

小生が彼と知り合った当時、奥様が難病に罹っていて、既に島外で療養生活を送っていて、独り暮らしをされていたので寂しかったということもあるのでしょう、小生が島にいるときは毎日、二人で飲んでいました。

しばらくして末の弟のターキが那覇から島に戻って来て一緒に住むことになるのですが、約20歳年の離れた兄弟は子供の頃から親子のような関係で、健康を害して戻ってきたターキがY.U.さんの指導の下、健康が回復していきました。
何度も、ターキのピアノに乗せて、島に住んでいるU家兄弟妹たちの唄を聴かせてもらいましたが、譜面もないのに見事にハーモニーが付いていることにとてもびっくりさせられました。
それに、皆、声質が似ているので合唱の一体感はとても見事なものでした。

島一番のインテリは島の人達からも信頼されていて、色々な行事でも重責を担っていたようでした。
そんなY.U.さんが、奥様の看病のために沖縄へ行ってしまうことになって、ぽっかりと穴の開いたような、島の重しが一つ無くなってしまったような空しい気持ちになりました。

沖縄へ行かれる前に、奥様を思っていたのでしょうか、小生と酒を飲みながら「もうお前と酒を飲むことはないのかねえ。」と虚空を見ながら語りかけるようにつぶやいていたことが印象に残っています。

その後何年かたって、奥様の訃報を聞き、落ち着いたら鳩間へ帰ってくるのかなあと思っていましたが、短期の滞在を除いて、とうとう最後まで鳩間へ戻ってくることはありませんでした。

彼が島を出て行ってから、住んでいた住宅には同居していた末の弟のターキが一人で住むようになりました。
ただ、父親とも言えそうなY.U.さんの存在がないと、重しが取れてしまうのでしょうか、生活が徐々に荒れて行ったように思います。
徐々に体調も悪くなり、とうとう2年前に亡くなりました。

住人がいなくなった町営住宅、我々がとてもお世話になったお家は町へ戻され、新しい住人が入りました。

そして遂にY.U.さんの訃報を聞くことになりました。

島へ帰られて、もう一度酒を酌み交わしたかったし、まだまだ教わりたいことも沢山ありました。
本当に残念でなりません。
でも、これで後生で奥様と酒を飲めますね。

ゆっくり休んでください。
心からご冥福をお祈りいたします。

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