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2011年11月 アーカイブ

2011年11月02日

毎度おなじみ、秋の沖縄・八重山2011

皆様、こんにちは

毎年行っている秋の沖縄・八重山、今年は例年より一箇月遅れて行ってきました。
例年だと、旧暦八月十三夜のとばらーま大会に合わせていくのですが、今年は都合が付かずこの時期。でも、もう台風の心配はないのでその点は安心ですが、鳩間行きの船が欠航しがちなシーズンなのでそれはそれで若干気にはなります。

今回も、まずは那覇でジャズのライブ。

R-Greenにて
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唯一の沖縄県産日本酒「黎明」、美味しかったです。

那覇「サクレ」の看板猫「ウズラ」
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サクレにて
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合間に、奧武山公園で開催されていた産業まつりに行ってみました。
日曜日、天気も良くて日差しは夏です。
相当に広い公園に相当な数のブース、イベントで盛大さが伺えます。

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興味を引いたのは、お墓の展示販売。あの立派なお墓はこのぐらいの値段なんだということが分かりました。
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やちむん(焼物)のブース
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月曜からは八重山です。
石垣島は天気も上々。
この季節の沖縄は、朝晩は涼しく、日中もさして暑くも無く寒くもなく、半袖で過ごしてちょうどいい気候です。
以前、ライブ・レストラン「ステラ」を営んでいたメグさんが新規に初めたお惣菜屋さん「八重山たい夢」にてゆんたくと休息。
ここは化学調味料を使わないお惣菜屋さんで、店内で食事もできます。子供連れのお客さん
が多いようですね。清潔でいい感じです。

「八重山たい夢」にて
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最近開発した、「月桃蒸し豚」を鳩間島で販売できないかと相談を受けて、販売は分からないけれども、宣伝パンフを置くくらいならどうかなということで、とりあえず現物を持って島に行ってみることにします。
試食してみると、サンニン(月桃)の香りが三枚肉に染み込んでとてもいい味です。ご飯のオカズにも酒のあてにもなりそうだし、サンニンの殺菌作用で多少日持ちもしそう。これはいけるなあと。

翌火曜日から土曜の朝までは鳩間島です。
火曜日の朝は波も高くなりがちで午後からは欠航の予想。
案の定、2便から水曜日いっぱい上原航路は欠航です。
火曜日の1便で渡ります。
米盛さんご夫妻もお元気です。

米盛タマ
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夜は毎日、こんなふうに軽く飲みます。

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ある夜のあて、イカスミの汁と長命草の胡麻和え
今回のように、一人、短期の場合は米少々しか持っていきません。
炊飯器はあるので米があれば何とかなりますし、食堂もあるので心配はありません。
もっとも小生は自炊。
調達できる材料で食事を摂るというのも面白さの一つではあるのです。

朝は、ご飯、漬物少々、ゆでたまご、お茶。
昼は、ご飯、ポーク卵、お茶とか、ご飯、何かの缶詰、お茶。
夜は、飲み会。
間に水やお茶を飲んだりします。
これで十分です。

まるだいのご主人の百箇日法要で、関係筋も来島してはいますが、この時期から来年3月頃までの鳩間島は本当に静か。
車は見なくても音で誰が乗っているのか大体分かるし。
船が欠航になると来島者もほとんどいなくなるので尚更。
食事は庭の食卓で摂るので、雨が降っていると部屋の中ということになるのですが、中で摂ったことはなかったので、一日中天気が悪いということはなかったようです。
木曜日午後あたりからだんだん良くなってきて、金曜日は夏のような晴れ。
シュノーケルの準備は持ってきていませんが、干潮の時間に北のリーフを散歩します。

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誰にも会いません。
潜ろうと思えば潜れます。
ゆったりと流れる時間を楽しみます。

この時期の夕陽
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そういえば、「月桃蒸し豚」は評判が良かったので何とかなるかもしれません。
金曜の午後に、石垣在住鳩間島関係者二名の相次いでの不幸の連絡で、明日の船で何名か石垣へ渡るそうです。
土曜日は、天気はまずまずですが波は高く、午前中の船は相当くるものがありました。
久しぶりに味わう船酔い、前夜の酒が効いているのかもしれません。
隣に座る浦崎商店は何食わぬ顔でケータイを見ています。

この夜は、パパビゴージでライブ。
めぐ・さくらのエプロンシスターズもゲスト参加。
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日曜日に帰るというのももったいないので、もう一日めぐ家にお世話になって天気の良い日曜日は、バンナ公園あたりを散策。

バンナ公園付近
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バンナ公園にて
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夜は、こてこての大阪お好み焼きパーティであります。

ということで、月曜日に寒い東京に帰るのですが、どうもあまり寒くないようで、とはいっても朝夕は冷えますな。
静かな静かな時間を楽しんだ、秋の沖縄・八重山でした。

お世話になった皆様、ありがとうございました。
次は来年の春でしょうか。

ではでは

2011年11月22日

vsopの会

皆様、こんばんは

今年から始めた40年ぶりのバンド再結成、vsopの会(very special one time performance)と呼んでおりますが、2回めの練習を行い、今年の練習を打ち上げました。

レパートリーは、今のところ、ジョージ・ハリソン、バート・バカラック、フランシス・レイの楽曲とジャズスタンダード、ジョビンの楽曲となっていて、見たところとりとめのない感じではありますが、あの頃の楽曲を今どう感じ取れるかということを基本にやっています。
結構面倒なところもある曲を、当時中学生の坊主たちは何を感じながらやっていたんでしょう。

とにかく楽しくやることが基本ですから、メンバーのできる範囲で小難しいことは言わずに何回も練習を重ねて仕上げていく、そして終了後の飲み会は欠かさない。このへんが大事でしょうね。

今回メンバーのH君が持ってきてくれたのが、1970年の音楽雑誌「ヤングギター」。
練習は、当時小生も住んでいた大田区の久が原のS君宅で行われていますが(皆、久が原に住んでいた。)これは、H君の久が原の実家から持ってきてくれたもの。
内容は、吉田拓郎の特集とかフェンダーアンプのチューニングの方法とか、ジャズギタリスト沢田駿吾さんのインタビュー、彼のアドリブコピー譜等々。
何か見覚えがあるな。
今読むと実にたわいのない内容なんですが、当時は夢中で読んでいたんでしょう。

ただ、小生は中学3年生くらいから、上記のような傾向からロックに傾倒していきました。
元々、クリームとかアドリブ重視系のロックは好きだったんですが、ウッドストックフェスティバルの情報が日本に入ってきて、その影響が大きかったんだと思います。
中学から高校へ進学ということもあって、もっともこの4名は同じ群の都立高校へ進んで、3名は同じ高校でした。当時の都立高校は学校群制だったもんで。
皆それぞれ自分たちの興味を持つ方向へ進んでいきました。

それでも、40年の時を経て、皆楽器をいじれるというのはなかなかすごいことだと思います。

皆の話を聞いていると、久が原在住のS君は別として、Y君、H君の実家も彼らの住居とは別に、小生が中学高校大学生だった当時と同じように、まだ久が原にあるそうです。
しかし、ご両親が他界したり、また住むことができなくなったりして当時と同じ状態で家だけ残っている。
では、子供たちが住むかというと、既に現在の居住地で生活圏を確立しているし、建替の問題とか色々とあって住めない。
どうもそういう家が多いらしく、我々が住んでいた頃は子供たちが沢山いたのに、今は本当に少なくなっているらしいです。
また、空家も増えているとのこと。
どうも、高齢化による空洞化が進んでいるような気がします。

H君の実家というのも、あの頃の時間が止まったままで彼の部屋なんかもあるらしい。
だから当時の雑誌なんかも持って来ることができるのですね。
高校受験、大学受験の参考書などもどうもそのままに佇んでいるらしい。
これは行って一晩飲み明かすしかないなと思いました。

音楽の不思議なところは、あの頃の楽曲を演奏しているうちに、全く忘却の彼方だった記憶が思い出されてくるところです。
良い思い出ばかりだったら良いのですが、ついでに苦い思い出も浮上してきたりして。

そんなこんなを楽しみながら、来年はこのバンドでライブができるでしょうか。

ではでは

2011年11月27日

酔っぱらいと綱渡り芸人について考えてみたくなった

皆様、今晩は。

O bebado e equilibrista(酔っぱらいと綱渡り芸人)、ジョアン・ボスコの名曲ですね。
演奏する機会も多いです。

ところで作曲者ジョアン・ボスコのライブ盤なんかでは、よくこの曲のインタールードとしてチャップリン作曲でジャズスタンダードとしても親しまれている「Smile」が演奏されています。
歌詞のはじめの部分で・・・・lembrou Carlitos(訳:チャップリンを思い出した)とあるのでこの曲を演奏するのかなと思っていました。

しかし、最近になってこれをエリス・レジーナが唄ったバージョンの伴奏で演奏してみると(コードの解釈は何通りもあって、ジョアン・ボスコ自身はこの進行では演奏していないようです。)、「Smile」ととてもよく似たコード進行の部分があって、まるまる1曲分入っていると解釈できる部分もあり、単に歌詞にチャップリンが出てくるだけではないような気がします。

特に、歌詞を8節に分けるとして第三節、E nubenns la no mataborrao do ceu・・・・から第四節、Louco o bebado com chapeu-coco・・・にかけてと第七節、Mas sei que uma dor assim pungente・・・から最後まで。

もちろん小節数やコードの間尺その他細かいところは異なりますが、全体として似た響きです。

「Smile」に発想を得て作曲したと解釈する人もきっといるんでしょうね。

ジョアン・ボスコ自身、「Smile」をインタールードとして使っていることは、「Smile」に対するリスペクトの表れとも解釈できそうです。

よく聞くのは、「O bebado e equilibrista」はブラジル軍制下で書かれたプロテストソングで、検閲をクリアするために暗喩が多用されていると。

この曲が出来たのが、1979年。
ブラジルは1964年にクーデターが起きて85年の民政移管まで軍事政権が続きます。その
間、経済的発展は遂げますが表現の自由は抑圧されて、多くのアーティストは苦労にさらされます。

かたやチャールズ・チャップリン(本名はチャールズらしいです。)ですが、彼は36年の映画「モダンタイムス」の主題曲として「Smile」を作曲しました。
40年の「独裁者」とともにこの頃の映画の作風は反ファシズム、ヒューマニズムの感が強く、太平洋戦争集結後は反戦の作風も強くなり、冷戦が強まる中、アメリカ社会に蔓延した、いわゆる赤狩りによって親共産主義者と決めつけられアメリカを追放されてしまいます。52年のことです。

62年にキューバ危機があり、65年から75年までアメリカはベトナム戦争の泥沼にはまっていきます。
チャップリンは72年にアカデミー賞特別賞を授与されることで再びアメリカの地を踏むことになるわけですが、結局はその生涯をヨーロッパで閉じています。

「Smile」は、チャップリンの反ファシズム、反ミリタリズム、ヒューマニズム讃歌とジョアン・ボスコは捉えたのかもしれません。
また、軍事政権は親米政権でしたからチャップリンの政治姿勢に対する共感もあったのかもしれません。

ちなみに「Smile」に歌詞が付いたのは54年で、ナット・キング・コールが唄ってヒットしました。
後年、マイケルジャクソンもカバーしていますね。

こう考えてくると、偶然「O bebado e equilibrista」の歌詞にチャップリンが出てきたのではなく、まさしくチャップリンをモチーフとしてこの曲が書かれたのではないかと思えるのです。

ただ、歌詞を見ると、おそらくチャップリンを象徴しているであろう Louco o bebado com chapeu-coco(山高帽をかぶった狂った酔っぱらい)を、ブラジルに悪さをはたらく軍事政権(おそらくは)と位置付けると、善悪の役割が逆になってしまうのではないかと思われるので、この点、何か逆説的な表現方法でもあるのかなとも思うのですが、ちょっと思いつきません。

曲が書かれた79年当時はまだ軍事政権化であったことを考えると善悪を逆に表現するということもありだったのかも。

このように考えてくると、インタールードとして「Smile」を演奏するというのは、チャールズ・チャップリンに対するリスペクト、そして山高帽をかぶった酔っぱらいを悪役に置いてしまった申し訳とも思えるのですが、どうですかね。
こんな考えがとっくにどこかに発表されているのであればすみません。

ではでは

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