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昭和 アーカイブ

2007年08月02日

悲しい種馬

皆様、こんばんは
ようやく全国的に梅雨が明けましたね。
小生とエスコーラ・ヂ・サンバ・サウーヂの現プレジデンチであるKAZU(沖縄編等にも登場しますね)がITAeKAZU(イタ・イ・カズー、イタとカズという意味です。つまり、さくらと一郎とか、やすしきよしとか)というバンドを組んでサンバやMPBに取り組んでもう10年以上経ったのでしょうか。
とてもまじめにブラジル音楽に向き合う一方で、ひょんなことから、二人とも昭和ムード歌謡が好き・・・・・と言い切ってしまうのはちょっとしゃくですね。子どもの頃から刷り込まれているのです。
そんなところから産まれた歌の話です。
確か、野毛でパゴーヂをやっていて単なるノリで唄った即興を、きちんと歌詞、曲を付け直して産まれたのがオリジナルサンバ歌謡三部作「悲しい種馬」、「柳の下でデュワデュワ」、「タンガに懸けた青春」であります。
作詞:石山和男、作曲:板垣武志という立派なオリジナル歌謡です。
こういうものは詞が先に来ます。
KAZU独特の実録的叙情詩で(モデルや実体験がベースです。)、語数や韻、文節も音楽的になっており、しかも縦書き原稿で来るので、こういうものは見ているうちに自然と曲が浮かんできます。
この手の曲は恥ずかしながら、作るのは得意です。
まだ、サウーヂの遊びの拠点が恵比寿の某所にあった頃ですから、10年位前の作かなあ。
一挙に3曲作ってしまいました。
で、例えば、地方のライブへ行った際のアフターアワーズ、帰る時間を気にしなくていいわけですから、思い切り飲んで遊んでしまうわけですが、このような状況で時々披露していました。
でも、これら3曲の印象があまりに強烈過ぎて、お客様はサンバ歌謡ばかり印象に残って家路につくのです。
しかもしばらく頭からこれが抜けない。
となると我々がこれまで一所懸命演奏してきたブラジル音楽はどうなるのだと悩んでしまいました。
そんなこんなでここ何年か封印していたのですが(一応もっともらしく)、ここに来て何だかムラムラとしてきているのです。
何故かと小生なりに考えると、それは、例の鳩間島を始めとして八重山・沖縄の皆さんの音楽に対するとても自然で素直な楽しみ方に二人ともとても共感を持っていることや、日本人として体に染み付いている音を曝け出すことに抵抗の無い年齢になったこと(いいのかな、KAZUごめん。)等々。
丁度、ユーモア好きピアニスト、鈴木厚志氏や悩殺系女性ボーカリスト、C.S.嬢とタレントも揃ったこともあるんでしょう。レコーディングしようぜということに相成りました。
ただし、KAZUはメジャーからの発売をねらっているので、今回はデモCDの作成です。
豚丸主催のS社の多大なるご協力を賜り、ほぼ録りを済ませました。

単なる宴会?
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真面目にやってます
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小生がマスタリング、トラックダウンを受け持っていますので、毎夜、レコーディングデータをあれこれしながらほくそ笑んでおります。
役得だなあ。
思い切り大人なオリジナルサンバ歌謡をお届けします。
バンド名は「板垣武志とイルミネーション紫」!!!
乞うご期待。
話は全く変わりますが、土曜、日曜は名古屋・大阪ツアーです。
またご報告します。
ではでは

2008年02月23日

永遠のアイドル

皆様、今晩は。
前々回のブログにギターを弾き始めた頃の思い出話を書きましたが、今回はその続きということで。

永遠のアイドルなのです。
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中学生当時、60年代後半ですね、YOUNG GUITARという雑誌がありました。
B.B.Kingとかアルビン・リーとかジョン・フォーガティとかアルバート・キング、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、マイク・ブルームフィールド等々のアドリブ・コピー譜がほんの数小節づつ載っていました。
あと、何故か、吉田拓郎(フォーク村とかフォーク・ジャンボリーとか)。
おまけに彼らのサウンドがどうやったら出せるかということで、ギターアンプのボリュームやらトーンコントロールやらのチューニングまで図示してありましたね(目盛りの図示です。)。
これを熱心に読んで、レコードを聴いているうちにロックにはまっていきました。
当時は、ビートルズに解散風が吹いている状況で、ベトナム戦争泥沼化の中で、反戦、反体制を標榜するロックが持ち上げられていた時期でした。
ウッド・ストック・コンサートが開催されたのもこの時期。
学校に行く前にNHKの朝のニュースでこの様子がほんの少し放映されて、とてもぶっ飛んだのが、サンタナでした。
ソウル・サクリファイスという曲、1曲だけなんですが(you tubeで見れるようですね。便利な時代になったもんだ。)、アフロのリズムと打楽器、カルロス・サンタナのギターの音色、バンドがカタルシスを得る雰囲気がものすごく衝撃的で、以来、サンタナのファンです。
自分でも真似をしたくて、どうやったらあの澄んだ伸びる音が出るのだろうと色々と試してみました。
今はエフェクター1個で済んじゃうんですけど、当時、エフェクターというものは、ファズ・ペダルとワウワウ・ペダル(クライ・ベイビーとも言いますが。)くらいしかなくて、あと、馬鹿でかいエコーマシンですね、これらを使って、セパレートの大きいギターアンプを借りてきて、リバーブを最大にして、いんちきサウンドを出してました。
エレキ・ギターは中学生には手が出なかったので、友達の兄貴のヤマハのセミアコです。
同級生にアリアのレス・ポール・モデルを持っていた奴がいたのでこれもしょっちゅう借りてましたね。
中2のときに、サンタナの「君に捧げるサンバ」という曲をコピーして、体育館であった何とかの会で演奏して、あとは、ギタリストのコピー一筋。
中学から高校にかけては、レッド・ツェッペリンやグランド・ファンク・レイルロードやBST、アル・クーパーやら、ロックの黄金期だったので、リアルタイムで聴いていて、レコードが出るのがほんとうに楽しみで仕方がなかった。
当時大好きで、今でも変わらず好きなのが、カルロス・サンタナを挙げることができますが、
一番だと思うのが、ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)です。
高校生の頃、武道館公演も行ったなあ。
あの頃、とても不思議に思えた曲想、ギターのハーモニーは今でも変わりませんね。
今でも現役で、アラブ系のハーモニーを取り入れたり、ネイティブであろうアイルランド系のハーモニーを取り入れたりして、そして年齢を経たこともあるのでしょうか、無駄な音が削ぎ落とされて、聴くたびに衝撃的な音楽を与えてくれます。
彼の音楽はとても「澄んでいる」印象があります。
最近、来日したようですね。
小生にとって永遠のアイドルはジミー・ペイジかな。
また次回。
ではでは

2008年04月24日

サンバ歌謡新曲

皆様、今晩は。
小生、鈴木厚志、KAZUのユニットによるもう一つの音楽表現ジャンルに「オリジナルサンバ歌謡」というものがあります。
もう10年位前からやっているのですが、日本語の歌詞によるサンバ歌謡です。
このブログにも以前登場したことがあります。
今まで完成した曲は3曲。
「悲しい種馬」、「柳の下でデュワデュワ」、「タンガにかけた青春」です。
実は裏でもう一曲(「あなたとサンバ坂」)ありますが。
いずれも、KAZU作詞、小生作曲のR指定的大人の唄です。
この3曲はライブ後の打ち上げ等で披露してきました。
いずれも大うけなのですが、ライブの中でやると、印象が強烈過ぎて、お客さんが我々が今まで演奏してきた曲を全部忘れてサンバ歌謡だけを頭の中に循環させて帰るという、今まで本番で演奏してきた音楽は忘れ去られてしまうという恐れがありました。
で、たまに披露するだけになっているのです。
最近、KAZU氏が新たに二曲、歌詞を持って来て新曲が誕生しました。
KAZU作詞、鈴木厚志作曲 「そんなスルドなひとりごと」、KAZU作詞、小生作曲 「オッブリガードな世界(感謝新世界)」という曲です。
やはりR指定でしょう。
Hです。
KAZU氏の詞は、縦書きで語数、文節、段落の区切りが、歌詞として視覚的に表現されているので、しばらく読んでいるうちに曲が沸いてくるのです。
こういう点て作曲するのに重要なんですね。
「スルド・・・・」はとてもロマンチックなメロディで古いサンバのイメージです。
小生作の「オッブリガード・・・・」は今までの歌詞とは違って、明るく前向きなものだったので、メジャーで勢いのあるfrevoのリズムで創ってみました。
今までは、哀愁がこもった歌詞だったので、60年代から70年代にかけてのムード歌謡、和田浩とマヒナスターズとか黒澤明とロス・プリモスとか鶴岡正義と東京ロマンチカとか敏伊藤とハッピー・アンド・ブルーとか・・・・・。
ピンカラ兄弟まで行くとすごいでしょうね。
ってご存知でしょうか。
今回は、おもいきりブラジル的にしてみました。
できあがってみると、結構いいんですよ。
元気が出るような曲に仕上がっています。
まずは、この後、旅に行く八重山で形を創っていって、もちろん披露する場所も色々あるでしょうし、新曲に慣れることができればと思います。
曲数もたまったので近いうちにレコーディングできればいいなと考えています。
もちろん、R指定的歌詞ができればどんどん曲を作りたいですね。
さて、このブログにも書きましたが、4月25日から八重山・沖縄へ二週間ほどの演奏旅行へ行って来ます。
毎年、音楽的にも何かしら得るものがあります。
今年は、例年に増して地元密着型なのでとても楽しみです。
帰って来ましたら、またご報告したいと思います。
ではでは

2009年12月24日

「鉄路の記憶」 その1

皆様こんばんは。

今年、このブログに記した飯田線のことや、過去の記録、記憶を辿ると、小生が鉄道好きということが自分として再認識されてきました。

断片的な記憶として思い出して話題とすることはあります。

いわゆる「てっちゃん」的な話題として。

しかし、今年参加したJR東海さんの「佐久間レールパーク」の仕事で味わった、昔の車輛に乗ってみた想いを考えてみると、鉄道というものは自分が生まれ育った時代と地域の空気と一体となって心の中に残ったレールではないかと思われるのです。

これから、若干の時間をかけてその「自分が生まれ育った時代と地域と鉄路」の関わり合いを記していきたいと思います。

題して 「鉄路の記憶」

不定期連載になると思いますが、小生が生きてきた時代の空気を鉄路の記憶と共に見直したいと思って記します。

興味がある方はお読みください。


第一章  「シマはどこね。」


この言葉を聞いたのはもう何年も前、沖縄は鳩間島へ行き始めたことだった。
「シマ」という言葉は、日本語では島である。
しかし、八重山ではうまりじま、生まれた島、生まれた土地、すなわち、故郷のことだった。
沖縄が大好きだった僕は、東京です(当時は、八重山と沖縄の違いも意識していなかった。)と言うのが少し恥ずかしかった。

昭和30年生まれの僕は、東京都品川区武蔵小山に生まれた。
実際に生まれた場所は、品川区五反田の関東逓信病院である。
その当時の大人のサラリーマン(父親)の月給はどのくらいだったのだろう。
たぶん1万円には及ばなかったと思う。
子供心には分からないが。

武蔵小山は、東急目蒲線の目黒から二つ目の駅。
日本でも最長とされるアーケード街で有名な街である。
その頃の目蒲線の記憶はない。
記憶があるのは、住んでいた武蔵小山の下駄履きアパート、母親に連れて行って食べさせてもらったアーケード街の中のラーメン屋、アパートの階段から三輪車で転げ落ちたこと、そして銭湯くらいだろうか。
   
何年か後にこの地にまた戻って、青春時代を過ごすなどということは当然想定外だった。

昭和30年代というのは、終戦直後の時期から朝鮮戦争特需を経て、日本が高度経済成長の急速な波に乗っていく時代だった。

父の社宅であった武蔵小山の下駄履きアパートも、弟が生まれ、家族が増え、時代が変わることによって住環境は変わっていった。

父親の転勤、家族構成の変化によって僕等の生活の場も移動していった。
生活の場所が転々と変わっていくのである。

次に引っ越したのが世田谷区経堂。

この頃から鉄道の記憶が残り始めている。
小田急線、ロマンスカー。
昭和33年。
母親に連れられて小田急のロマンスカーのチャイムの音を聴くのが楽しみだったことをおぼろげに記憶している。

当時の小田急の普通電車は上半身が黄土色、下半身が藍色だっただろうか。

しかし、後で記憶を遡った鉄路の原風景は、母方の両親の家だったような気がする。

戦後まもなく、東京に居を構えた母方の両親の住まいは、新宿の東大久保の造幣工場(日銀のお札を印刷する部門であったような気がする。)、現在で言うと新宿区戸塚の近くであった(記憶が確かではないが。)。

庭を都電が掠めて行った記憶がある。

昭和30年代だから、上半身が黄色、下半身が茶色。
当事は、路面電車華やかなりし時代で、新宿や神田、御茶ノ水、郊外といわれた中野まで都電網が張り巡らされていた。

また、記憶があるのが、池袋を基点としたトロリーバス(架線から電気を供給する電動自動車。)。
現在であれば、いわゆる「エコ」の見本だったんだろうな。
これらの記憶はおぼろげながらだ。
都電の記憶は鮮明に残っている。
行先表示と行先番号だ。
須田町、月島、中野坂上・・・・・53,61,27(番号とは合っておりません。)
都内を縦横無尽に都電が走っていたっけ。
「月島」ってどんなところだろうな。「須田町」ってどこだろう。
行先表示にはそんな想像力をかきたてるものがあった。

あの時代、物理的にも経済的にも容易に遠くへ行けなかった時代。
心を湧かせる未知の土地への憧れを抱かせる象徴が鉄路だったのかな。
(続く)

2011年07月27日

40年ぶりの再結成

皆様、こんばんは

今回は、40数年ぶりにバンドメンバーが集まって1回だけのライブをやろうというお話です。

初めてバンドらしきものを組んだのは、中学校2年の頃。
その当時のメンバーが集まろうということで、先日再結成記念飲み会が開催されました。

当時、昭和44年~45年頃、バンドをやろうなどという小僧どもはちょっと不良っぽいという世評でしたが、そこが格好いいという部分がありました。

小生は、東京は小平市在住の頃、早熟な友達から中途半端にギターを教わったものの、中学1年の夏に大田区へ転校し、周りに音楽をやる環境がなくなってしまいました。
せっかく買ってもらったガットギターを廃品にしてしまうのももったいないと考えたのか、クラシックギターの通信教育を一人で始めました。

何の弾みかこれが一年でそこそこ弾けるようになってきて、そうするとうわさを聞きつけた同好の士とつるむようになってきます。

まだまだ楽器が高価な時代。金のない中学生は何かと苦労します。
まずは練習場。
これは幸いにも近所の広い邸宅に住むS君、しかもピアノもあるという、ここにすぐ決定。
元々小生が転校してくる前、彼らはピアノ、ギター、ベースでバンドをやっていたらしいのですが、そこに小生がスカウトされたということでしょうか。

ベースのY君は、当時中学生が持つには珍しかったであろうウッドベースを持っていました。
ギターのH君はエレキギターを持っていたような気もするし、オルガンも弾いていたような記憶もあります。
みんな裕福だったのかな
小生は、ガットギターのみ。

小生は別として、当時このような比較的恵まれた音楽環境に彼らがあったのは、兄弟の影響が大きいと思います。
兄貴のアンプやギターを使わせてもらったり、兄貴たちの楽譜を見せてもらったりする恩恵に預かるわけです。

手先の器用なベースのY君がビンのプラスチックのふたと金属の薄い板と画びょうで、ガットギター用のマイクを作ってくれました。これなどはピエゾマイクのはしりですね。
S君の兄貴のアンプを借りたら、憧れのエレキギターっぽい音になるではありませんか。
難点は、楽器との接点が画びょうなので、装着するたびに楽器に穴が開くことでした。
そのうちドラムも加わって、何とかバンドの体裁が整ってきました。
ドラムは持っている、あるいは用意できる人ならば誰でもウェルカムでした。
アンプやドラムセットはリヤカーで運んでましたね。
あのリヤカーはどこから調達したんだろう。

で、何を演奏していたかというと。

1970年あたりというのは、ビートルズはそろそろ解散の風が吹いていた頃、ストーンズはばりばり、クリームという新しいロックの傾向を示唆するグループがセンセーションを巻き起こし、反戦、反権力の政治的な影響が音楽にも強い影響を与えつつありました。ウッドストックフェスティバルという画期的な試みが行われたのもこの頃でした。

しかるに、脳天気な中学生は、まだそちらの動きについていけなかったのでしょうか、もう下火になりつつあった、いわゆるエレキバンド(ボーカルをフロントに置くグループサウンズなどとは違いますね。)、そのエレキバンド的アレンジによるバート・バカラックとかその周辺の曲をやっていたような気がします。
ベンチャーズはださいということで、むしろシャドウズに傾倒していたように思います。
イパネマの娘なんかも確かやりましたね。

小生は中学3年生あたりからはロックに傾倒して、サンタナやクラプトンやジミー・ペイジ等の新しい傾向のロックに夢中になっていったんですが、このバンドはロックになる前のエレキバンド的アレンジによるポピュラーミュージックとでも言うのでしょうか、ま、言ってみればぬるま湯的であまり不良っぽくないことをやっていたような気がします。
当時の大人受けするようで、山の手のお坊ちゃんみたいな、今から思うとあまり格好良くない。

その短いぬるま湯期間の後は紆余曲折。
皆それぞれの道を歩みました。
そして40数年。

再結成のきっかけは、H君が小生のライブに来てくれて、そこでひょんなところから話が出て提案したら皆の賛同を得てということですが、ドラムスは消息不明。
ま、他の4名が健在で、集まれる環境があるということの方がラッキーなわけですから。
よく、卒業間近になると疎遠にしていたクラスの仲間たちと急にコンパをやったり、旅行に行ったりというようなことがありました。
今回も、人生の中盤から終盤にさしかかるあたりでそんな気持ちになったのかもしれません。

自分たちや友人たちと振り返ることができるかもしれないと思うと共に、ベースのY君のご母堂(80代後半)の、そんなことがあるのなら私もそれまで元気でいたいとのお話を聞いて、そういうこともあるのかと、目からうろこでした。

しかし、これからが大変。
その過程を楽しめればいいでしょうね。
とりあえずは、今年の末か来年年明けにライブを目指して進もうと。
そのくらいの目標を立てないと動かないんで。
場所もある程度テンションが落ちない場所を考えるということにして・・・・・・・・。

あと、重要なのは女性ファンとバンド名ですね。
何といっても男子中学生のモチベーションは、「もてたい」。
何事もこれに尽きたわけで。

この辺をどう仕込むかは、現TVプロデューサーのH君の守備範囲かなあ。
ちなみに、ピアノのS君はベテランの整形外科医、小生も手やら足やら間接関係、いつもお世話になっております。
ベースのY君は手先の器用さが生かされてかどうか知りませんが、医療関係技師。
昔取った杵柄で音響面の面倒も見てもらいましょう。
小生はそのまま専門家で不公平かもしれませんが、音楽的な下働きをするということで許してもらいましょ。

しかし、こういう飲み会は時間が経つにつれ昔と変わらない話題になってくるというのは、お約束とはいえ面白いですね。
すなわち、当時の女子の話題。
誰が誰を好きだった、実はどうたらこうたらどうたらこうたら・・・・・・・・・。
何時になっても変わらないおばかな男どもでいたいものです。

そうだ、バンド名どうしよう。
さて、どうなることやら。

ではでは

40年前のモテモテ男たち
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